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田辺祭の由来

田辺は、古くは「牟婁ノ津」と呼ばれましたが、熊野三山信仰が繁昌した時代には熊野への入口、海陸交通の要衝として「田辺」の名が歴史に現れてきます。江戸時代には城下町が形成され、中辺路・大辺路の分岐点として熊野詣や西国巡礼の往来で賑わうなど、南紀の政治・経済・文化の中心として栄えてきました。

闘鶏神社について

toukeijinja.jpg笠鉾が巡行する田辺祭は、闘鶏神社の夏祭です。

平安時代に熊野別当湛快(たんかい)が田辺別当家を創立し「熊野坐(くまのにます)大神」を勧請して「新熊野(いまくまの)十二所権現宮」「新熊野社」と呼ばれました。ここへ詣でることで熊野三山参詣に替えたと伝えられています。これが現在の闘鶏神社です。田辺の闘鶏神社へ詣でただけで引き返す人びともいたといわれています。

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また、熊野別当の湛増(たんぞう)が源平のどちらにつくかを決めるのに、紅白の鶏を七羽ずつ社前で闘わせ、ことごとく白が勝ったので、源氏に味方することになり、軍船二百隻余を率いて壇の浦へ出陣したという『平家物語』記載の故事でも知られています。

 

田辺祭の発祥

田辺祭を古文書でみると、紀州藩主浅野幸長(あさのよしなが)、田辺領主が浅野左衛門佐(さえもんのすけ)の時代であった慶長10年(1605)に、「権現宮祭礼町中改車」、同12年「流鏑馬三騎町より出」という記録があります。また、徳川頼宣(よりのぶ)が藩主になって徳川御三家が成立し、頼宣の附家老であった安藤帯刀直次(あんどうたてわきなおつぐ)の領知となってからの寛永10年(1633)には、一時、能の奉納となったようですが、寛文12年(1672)に袋町(福路町)の鉾の台が車となり、翌年の延宝元年には町中の台が車となったという記録があり、この頃には現在の笠鉾の原形ができあがったようです。


※闘鶏神社は、正しくは「鬪雞神社」と書きます。

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