黒潮の恵みにより冬は暖かく、夏は比較的涼しい温暖な地域の田辺市。
その町の概要と、田辺で生まれ育った偉人達をご紹介します。

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南方熊楠

南方熊楠

幼少期

南方熊楠は、慶応3年4月(1867年5月)、和歌山城下に生まれました。幼少期、父は鍋屋を営み、鍋釜を包むのに反古紙を山と積んでいました。熊楠は、反古紙に書 かれた絵や文字を貪り読みつつ成長しました。近所の家から漢文で綴られた当時の百科事典『和漢三才図会』を借り、数年がかりで105巻を写し取りました。 読み、写し、記憶する、これが少年熊楠の日常でした。

また、幼少期、熊楠は「てんぎゃん」と呼ばれていました。熊楠自身が語るように「日本人に例少きほど鼻高かりしゆえ」の呼び名だったようです。熊楠はこ の天狗のニックネームを好んだらしく、写本の表紙によく天狗の絵を描き、また文章にも「天狗言」と署名するなどしています。

渡米~ロンドン

和歌山中学校(現桐蔭高校)卒業後、上京し、東京大学予備門(現東京大学)に入学しましたが、熊楠の学問への欲求が満たされず、ほどなく退学。20才で渡米し、各地を巡り、植物の実地調査・研究に没頭しました。

その後25才でロンドンへ渡り、大英博物館副館長格であったフランクスに見出された熊楠は、その助手のリードに日本語や中国語に関する助言を依頼され、東洋美術部に出入りするようになりました。27才のときには博物館中央にある円形ドーム型大閲覧室で「ロンドン抜書」の作成を開始し、33才で帰国するまでに52冊、1万800ページに渡り民俗学や植物学など、当時先端の学問を学びつつ書き写しました。

これと並行するように、熊楠は処女作の「東洋の星座」を皮切りに、当時科学雑誌としての権威を高めつつあった『ネイチャー』誌にたびたび投稿し、東洋にも固有の科学思想があったことを紹介し続けました。熊楠の『ネイチャー』掲載論文は生涯で51本に上りますが、これは同誌の歴代の投稿者の中でも単著としては最高記録であると言われています。

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帰国、田辺へ

帰国後、公には何の学位も持ってない熊楠をどうするか悩んだ弟常楠は、自らが営む南方酒造勝浦支店に熊楠に行ってもらえば、妻の手前、生活費援助の名目も立ち、植物の研究にも都合がよいだろうと考えました。熊楠34歳のときです。
それから約3年にわたり那智山周辺で植物の調査をした後、37才から田辺に住み続けるようになり、48才で終の栖となる現在の南方熊楠邸に居を構えました。

熊楠は田辺という紀伊半島南部の小都市に住みながら、海外の高名な学者とのやりとりや、『ネイチャー』をはじめ、ロンドンの科学雑誌への投稿を通 じて、常に世界の知的情報の流れとつながっていました。日本においても、白井光太郎、今井三子といった中央の植物学者のみならず、柳田國男、河東碧梧桐、 高野山管長の土宜法龍などといった様々な分野の知識人と交流しました。

また、昭和天皇が神島にお越しになった際、ご進講した熊楠が百十点余りの変形菌(粘菌)の標本をキャラメルの箱に入れて献上したことは、熊楠らしさのあらわれた有名なエピソードです。

最近では、「エコ」が注目され、エコロジーの先駆者として熊楠は注目されています。神社合祀に反対し、その結果守られた神社の森には、野中の一方杉、那智の原生林などがあり、それらの森は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のなかに点在しています。また、熊楠が尽力し国の天然記念物となった神島もしずかに田辺湾にその姿を浮かべています。

熊楠は存命時、『南方閑話』、『南方随筆』、『続南方随筆』の3冊しか著書を発行していません。そうしたことから、熊楠の思想は彼の書いた書簡や原稿のなかに埋もれています。その数は膨大なもので、すべてが解読されるにはかなりの年月を要します。長らく伝説的存在であったこの巨大な思想家・南方熊楠については、没後70周年(2011年)を経て、ようやくその真の姿、「等身大の熊楠」の研究がはじまったばかりです。

2006年には南方熊楠顕彰館が南方熊楠邸の隣に建設され、南方熊楠顕彰の拠点として、熊楠資料の保存・調査・公開、南方熊楠研究の推進、情報発信などさまざまな事業を展開しています。

「日本人の可能性の極限」とまで賞賛された熊楠の深遠な精神のなぞ解きは、まだはじまったばかりです。 

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