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旧田辺市内の熊野古道

旧田辺市内の熊野古道(田辺素猫より)

1998年に田辺市広報に「田辺素描」として連載された熊野古道のコラムをご紹介。旧田辺市内の熊野古道の歴史に触れてみよう!

路傍の道標 
– 田辺の城下町と熊野古道 –

庶民が盛んに熊野詣をする近世には、旅人たちは田辺の城下町を往来するようになる。江川の桝潟(升形)・本町・寺町(江川3力寺)、会津大橋・小橋、本町、下長町・上長町(今の栄町)、北新町のコースである。(熊野道は、城下町の内に政治的経済的に位置づけられる)北新町(三栖口)の道標は、往時の賑わいを今に伝える貴重な史跡である。高さ218cm、幅厚約30cmの石製角柱で、安政4年(1857)の秋、大阪西横堀炭屋町の石工・見かげや新三郎が再建したものである。

三栖口は、熊野道の中辺路ルートと大辺路ルートの分岐点で、本町・栄町方面からやってきた旅人は、「左 くまの道」に従って普通は万呂・三栖方面(中辺路)へ進むわけである。小さい字で「すくハ 大へち」とあるのは直進すれば礫山・新庄方面(大辺路)へ続く事を示している。
逆に万呂方面からやって来ると「右 きみゐ寺」に従い栄町・本町へと進むことになる。

安珍を追いかけて来た清姫が槙山の中腹捻木峠から田辺を望むと、安珍が通通していたと言われているのがこの三栖口である。

栄町(長町)は熊野詣の旅人宿で賑わいをみせていた町並みであり、「三栖口の道標」は田辺のメインストリートの繁盛ぶりを今に伝える責重な史跡といえるだろう。

(濱岸 宏一 : 田辺市文化財審議委員)

路傍の道標 - 田辺の城下町と熊野古道 -
三栖口の道標(道分け石)

古道沿いの景観

いくら難行苦行がありがたいとはいっても、楽しみがなければ旅とはいえません。

熊野街道を旅した人は、どんな楽しい思いをしたのでしょうか。お金をたくさん持っている人は、おいいしいものを食べたり、飲んだりしたのでしょうが、なけなしのお金や講(こう)によって旅する人はそんなぜいたくは許されませんでした。しかし、ただで旅を楽しむすべは心得ていました。それは景色を堪能(たんのう)することです。これは今も最高のぜいたくではないでしょうか。

田辺に入った旅人がまず感嘆したものが、芳養町にある奇岩「牛の鼻(うしのはな)」付近です。海に沿った街道の景色が良かったのでしょう。寛政10年(1798年)の「熊野詣紀行(くまのもうできこう)」や幕末の「紀伊名所図会(きいめいしょずえ)」にスケッチや挿図で描かれています。

江戸時代の熊野の紀行文には、秋津野(あきつの)、人国山(ひとくにやま)、雲の森など、万葉集などの古歌に関連する地名も書かれており、これらの文学を訪ねた旅人もかなり多かったことがうかがえます。

田辺素描-古道沿いの景観 1
現在の「牛の鼻」(写真中央)周辺
田辺素描-古道沿いの景観 2
熊野詣紀行

一里塚
– 近世の熊野古道に存在 –

熊野古道といえば、沿道に九十九王子があり、上皇や貴族が熊野参詣のために通行した中世の道が考えられがちである。しかし、一般庶民が熊野参りや西国巡りで歩いた近世の道も、熊野古道であることに変わりがない。

この近世の熊野古道は、田辺市内では、芳養の大神社のわきを通り、会津橋を渡って三栖ロから潮見峠に向かうが、道端に一里塚があったのが特色で、芳養松原、下万呂、下三栖、長尾坂の4カ所に塚跡の場所が確認でき、市教委が文化財の標柱を建てている。

一里塚は、道の両側に塚を築き、その上に松が植えられていて、里程の目印になり、また旅人の休息の場所でもあった。これは和歌山から一里ごとに設けられたもので、芳養で十八里、三栖でちょうど二十里であった。

今はどこにも塚や松が残っていないが、芳養の一里塚跡には、地蔵をまつったお堂があり、エノキが道の上に張り出していたりして、昔を偲ばせるものがある。

(杉中浩一郎:田辺市史編さん委員長)

田辺素描-芳養一里塚
芳養一里塚

熊野詣と文学

熊野詣は苦行の旅である。そういう中で詩歌も生まれる。後白河法皇の編まれた「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)では、

熊野へ参らむと思へども、徒歩(かち)より参れは道遠し、
すぐれて山峻(きび)し、馬にて参れば苦行ならず、空より
参らむ、羽賜(はねた)べ若(じゃく)王子

と詠っている。いかなる身分の人でも苦行のためには歩きなさい、馬に乗ってはだめですよ、といわれて、とっさに思いついたのが鳥になって飛んでいくことだった。これなら先達も許してくれるだろう、とおどけているのである。

現世を安穏に、そして来世の苦しみを少しでもこの世にいる間に減らしておきたい。そうした救いを求めて人々は、「熊野」を目指した。幕末の歌人加納諸平は、田辺を訪れて当時を追想し、

むろの江をつらねて渡る
雁(かりがね)に たえし御幸の 影をしぞ思ふ

の和歌をのこした。古道には今も「昔」が色濃くのこっている。

(中瀬喜陽:田辺市文化財審議会委員)

田辺素描-熊野詣と文学
数々の歴史を秘めるむろの江
(現在の田辺湾)

熊野古道 -長尾坂-

平安時代から鎌倉時代にかけての熊野参詣道は、市内下三栖の三栖山王子社から上富田町岡の八上王子社に至る岡越えの道を通っていました。しかし、南北朝時代(14世紀)頃より、潮見峠(中辺路町)越えの道を通るようになっていきます。

この道は、上三栖より長尾坂(約16町)を登って、水垣内(水ガ峠)、捻木峠、中ノ峠、潮見峠に至るルートです。長尾坂は、その後、長い間(昭和のはじ めまで)、熊野参りや西国巡礼の人々など、多くの旅人で賑わいました。ちなみに、長尾□から、潮見峠までの間には、茶屋が5軒もあつたといわれています。

長尾坂には、一里塚跡(和歌山から21里)や、道祖神、昼寝王子、茶屋跡の馬つなぎ石などが残っています。また、逃げる安珍を追ってきた清姫が、悔しさのあまり枝をねじまげたといわれる捻木の杉(高さ約20メートル)など熊野古道の歴史とロマンが感じられます。

(橋本観吉:田辺市文化財審議委員)

※長尾坂と潮見峠越は、2016年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録されました。

田辺素描-長尾坂

熊野詣と水垢離、潮垢離

かつて神仏にお参りする際、しばしば全身に水を浴び、身を清めることをした。これを「垢離(こり)を取る(掻く)」といった。

熊野に参詣する人々が、道中の随所で水垢離、潮垢離を取ったことが、書き残された日記でわかる。それは熊野詣に欠かせないものとなっていた。

上皇や貴族たちは、出発前の数日間、特設された精進屋にこもるならわしだったが、その間にも何度かの水垢離を取っている。

熊野に向かう際、田辺は最後の潮垢離を取る場所だったので、特に念入りに行われたと思われる。ただし、日記類の記述が簡略なため、用具や作法の詳しいことはわからない。

熊野詣が一層盛んになり、蟻の熊野詣といわれるようになった室町時代、将軍足利義満の側室が参詣に来て田辺に1泊した。その際、浜辺に潮垢離揚が設けられたが、宿舎から囲いのようなものでつながれていたようだ。

(岸彰則:田辺市文化財審議会委員)

田辺素描-熊野詣と水垢離、潮垢離

関東ベエと山祝餅

江戸時代から明治にかけての熊野詣は、伊勢参りや西国三十三所の巡礼と兼ねることが多かったようです。冬から春にかけての農閑期に、関東方面などから多く の人びとが、伊勢路を経て熊野三山へ参り、中辺路を通って、必ずといっていいほど田辺で宿をとりました。地元田辺の人びとは、関東地方から来た人を、その 言葉づかいから「関東ベエ」と呼んだそうです。

田辺素描-関東ベエと山祝餅 2
「紀伊国名所図会」

この時代、田辺の旅籠(はたご)に着いた人びとが、餅をついて神仏に供えたり、同行人やほかの旅人などにふるまうのが習わしでした。 この餅を「山祝餅」(弁慶の力餅・山越餅(やまごえもち))と呼び、熊野詣を無事に終えたことを祝うとともに、多くの人びとと喜びを分かち合ったのです。 春になると、田辺の旅籠街では、「関東ベエ」の餅つきと熊野三山への往来でたいへんにぎわったそうです。これらの図は、その様子をよく表しています。

〔紀南文化財研究会〕

田辺素描-関東ベエと山祝餅 1
「西国三十三所名所図会」